8がつに入ったばかりの猛暑の1日、部屋でも整理したら、少しは気分もすっきりするかと片付けを始めた。
整理下手の理由のひとつは片付けるのに道草が多くて仕事がはかどらないこと、アルバムをちょっとのぞいたのがちょっとですまなくなって思い出にふけりながら丁寧に見てしまったり、包み紙の新聞紙の古い記事を読み耽ったり・・・といった具合だが今日も箱にためた新聞などの切抜きを見ていて、その1枚に座り込んでしまった。思いがけない記事を見つけたのだ
それは1981年、中日新聞に連載されていた「長い旅」という大岡昇平の小説のなかのほんの数行。
でもその1節は私が戦争中8ヶ月間、勤務していた旧帝国陸軍、東海軍管区司令部の中にあった防空庁舎のことであった。ひとつも窓のない黒い異様な建物で1トン爆弾に直撃されても大丈夫と聞かされていた。
その小説の描写によると、「防空庁舎はこの年(おそらく1945年)2月11日新設されたもので敵機の位置をランプで示す映画スクリーン状の地図が壁にはってある。紀伊半島と三重県の各所に設けられた官民監視所(目視、聴視による)から送られてくる情報は一括名古屋に送られてくる。すると地図にランプがつくのである。」
巨大な地図板は壁ではなく床に敷かれてあったがそれ以外は正確に私たちの仕事場(?)が写し出されてあった。
なにびとにも知られないように極秘裡に建設され、敗戦になってやがて壊された闇から生まれ闇にきえたような庁舎だが、30数年もたって小説の上で思いがけなく再会し懐旧の想いから切り抜いてとっておいたのだろう。更に30年近く月日が流れてまたもやこの記事を見つけ、遥かな忘却のかなたから掴み出すようにあの当時のあれこれ、思い出してしばらくはなにも手につかなくなってしまった。
地図版に点滅するランプが今も目に浮かぶ。ピッピーと鋭いブザーが鳴り南方海上のランプがつく。
仮眠していた人たちが次々呼び起こされて部屋に入ってくる。真っ先に入ってくるのは何時もJOCKのアナウンサーだった。
吹き抜けになった2回の正面に情勢を判断して情報や警報を出す参謀殿が地図版をにらむ。
警戒警報発令、ランプは刻々北上して数を増し本土に上陸、空襲警報が発令される。
その情報や警報を間髪をいれず、われわれ女子通信手はいろいろな機関へ伝達したものであった。
ミスは許されない。張り詰めた緊張の連続だった。
名古屋が空襲されていても焼夷弾や爆弾の音は全然聞こえない庁舎にいたせいか若かったせいか家のことなど
あまり気にならなかった・・というより気にする余裕がなかった。
あのころ「命は鴻毛より軽い」と教えられた。「葉隠」だか「戦陣訓」だかのなかにある言葉だそうだが、戦後になってその命が地球より重いといわれるようになった。近頃はまた後期高齢者など区別されて長生きするのが心苦しいような時代になった。などといってもころころ変わる世の中を半分面白がってみているこちらもしたたかで始末が悪い。
とにかく、短い期間だったけれど学徒の身分のまま、そしてまた軍属という身分で陸軍という世界をほんの少しだったけれど垣間見た私の人生のなかでもっとも特殊な時期であった。
整理しようと思った切抜きはまた大事に箱におさめてしまった。