2011年4月26日火曜日

2009年12月15日火曜日

2009年10月20日火曜日

2008年8月19日火曜日

8がつに入ったばかりの猛暑の1日、部屋でも整理したら、少しは気分もすっきりするかと片付けを始めた。
整理下手の理由のひとつは片付けるのに道草が多くて仕事がはかどらないこと、アルバムをちょっとのぞいたのがちょっとですまなくなって思い出にふけりながら丁寧に見てしまったり、包み紙の新聞紙の古い記事を読み耽ったり・・・といった具合だが今日も箱にためた新聞などの切抜きを見ていて、その1枚に座り込んでしまった。思いがけない記事を見つけたのだ

それは1981年、中日新聞に連載されていた「長い旅」という大岡昇平の小説のなかのほんの数行。
でもその1節は私が戦争中8ヶ月間、勤務していた旧帝国陸軍、東海軍管区司令部の中にあった防空庁舎のことであった。ひとつも窓のない黒い異様な建物で1トン爆弾に直撃されても大丈夫と聞かされていた。
その小説の描写によると、「防空庁舎はこの年(おそらく1945年)2月11日新設されたもので敵機の位置をランプで示す映画スクリーン状の地図が壁にはってある。紀伊半島と三重県の各所に設けられた官民監視所(目視、聴視による)から送られてくる情報は一括名古屋に送られてくる。すると地図にランプがつくのである。」
巨大な地図板は壁ではなく床に敷かれてあったがそれ以外は正確に私たちの仕事場(?)が写し出されてあった。
なにびとにも知られないように極秘裡に建設され、敗戦になってやがて壊された闇から生まれ闇にきえたような庁舎だが、30数年もたって小説の上で思いがけなく再会し懐旧の想いから切り抜いてとっておいたのだろう。更に30年近く月日が流れてまたもやこの記事を見つけ、遥かな忘却のかなたから掴み出すようにあの当時のあれこれ、思い出してしばらくはなにも手につかなくなってしまった。
地図版に点滅するランプが今も目に浮かぶ。ピッピーと鋭いブザーが鳴り南方海上のランプがつく。
仮眠していた人たちが次々呼び起こされて部屋に入ってくる。真っ先に入ってくるのは何時もJOCKのアナウンサーだった。
吹き抜けになった2回の正面に情勢を判断して情報や警報を出す参謀殿が地図版をにらむ。
警戒警報発令、ランプは刻々北上して数を増し本土に上陸、空襲警報が発令される。
その情報や警報を間髪をいれず、われわれ女子通信手はいろいろな機関へ伝達したものであった。
ミスは許されない。張り詰めた緊張の連続だった。
名古屋が空襲されていても焼夷弾や爆弾の音は全然聞こえない庁舎にいたせいか若かったせいか家のことなど
あまり気にならなかった・・というより気にする余裕がなかった。
あのころ「命は鴻毛より軽い」と教えられた。「葉隠」だか「戦陣訓」だかのなかにある言葉だそうだが、戦後になってその命が地球より重いといわれるようになった。近頃はまた後期高齢者など区別されて長生きするのが心苦しいような時代になった。などといってもころころ変わる世の中を半分面白がってみているこちらもしたたかで始末が悪い。
とにかく、短い期間だったけれど学徒の身分のまま、そしてまた軍属という身分で陸軍という世界をほんの少しだったけれど垣間見た私の人生のなかでもっとも特殊な時期であった。
整理しようと思った切抜きはまた大事に箱におさめてしまった。

2007年11月5日月曜日

ある体験

4歳年上の従姉が一人暮らしになって以来、年に2度1泊か2泊の旅行をしています。まだ二人ともなんとかついていけますので、お膳立てのしてあるツァー旅行を選んでいます。今年の秋は「伊勢志摩ミステリー旅行」を選びました。その2日目、昼食は海女小屋でということでした。「海女小屋」・・以前に1度か2度テレビで見た記憶とおなじようなつくりの,部屋の真ん中に大きな囲炉裏があり炭火が燃えて海女さんが一人すわっていました。海女さんは今はスウェットスーツを着るのだそうですが私たちのイメージどうりの白い作業着を着ていました。観光客のための装束なのでしょう.一行の一番後から入っていった私は海女さんの隣に座りました。突然海女さんが30センチ近い大きなイセエビをポイと火の上に放りました。「可愛そう!」期せずして女の人たちが声を上げます。串を打たれたえびは飛び跳ねることもできず手足?を伸ばして業火から逃れようともがいています。これが残酷焼きかとため息をつく思いで眺めていると「これ乗せて、火の上に、」と海女さんが海老を隣の私に渡しました。「え、えェ、、何で私が?」と思いました。今私の座っている席はいつも海女さんのお手伝いをするのだそうです。手袋をはめて海老をつかみました。掌の中でもぞもぞと動いているのを振り切るように火の上におきました。ぐさッぐさッと串をうち次々に海老が渡されます。スピーティーです。考える暇もなく人数分の海老を火の上にのせました。程よく焼けました。残酷な行為をした嫌悪感や憐憫の情よりも食欲はずっと上回っておいしいものを食べた満足感に浸りました。でも掌のもぞもぞした感触はいつまでも忘れられないだろうと思います。海にもぐって高価な魚介類をつかんでくる海女さんは60年もこの仕事を続けていると言いました。当然日焼けして逞しいからだでした。ひとつの仕事に練達した女性特有なゆるぎない落ち着きをもち、無駄のない動きやら話し方やらで、食べ物の美味以上に私はこの人に魅了されてしまったようです。長く生きると思わぬ出会いもあり体験もあるのだと思いました。

2007年9月11日火曜日

今昔の感


この写真は名古屋駅から東に延びる桜どうりを写したものです。元気な名古屋の堂々たる表玄関の景観です。
ここでまた古い話を持ち出して恐縮ですが、70数年前はとても狭い通りでした。名も桜ン町といいました。道幅は3間くらいでしょうか。私は尺貫法のことはよく知りませんがまだあのころは日常的には「背丈は5尺2寸」とか「間口が5間」だとか古い言い方がつかわれていました。
有名な西区の4間道(しけみち)が江戸時代、防火のために当時としては広い道として作られたと聞きました。桜ン町もそれくらいか少しそれより狭いかなとこれは私の当てずっぽうです。ちなみに1間は1.8mだそうです。
私の小学校はこの桜ン町にあり、この道は通学路でした。老舗の繊維問屋、滝兵さんの3階建の洋館が唯一目立つ建物で庶民的な家がつつましく建ち並んでいました。交通事故の心配などもなく、のんびりゆったり学校へ通いましたが、2年生のとき道路が広くなりました。それが現在の広さですから当時としてはとてつもない夢のような広さ、べらぼうなひろさだったのです。おかげで私たちの小学校は講堂が道路拡張のため削られました。以来、2年から6年まで学芸会は無し、祝日の式なども運動場でした。
まだ隣の小学校は運動場が削られたということでした。戦災で焼けるまで10年ほども運動場のない小学校があったなんて今では信じられないことですが・・私の記憶違いでしょうか。なんだか自信がなくなりました。
桜どうりというからには桜並木があったのではないかと思いますがそれは私の記憶になく銀杏並木だけおぼえています。あのあたり今あまり通りませんが大樹になって亭々と聳えていることと思います。6歳の子供が80ばあちゃんになってしまったのですから・・・