4歳年上の従姉が一人暮らしになって以来、年に2度1泊か2泊の旅行をしています。まだ二人ともなんとかついていけますので、お膳立てのしてあるツァー旅行を選んでいます。今年の秋は「伊勢志摩ミステリー旅行」を選びました。その2日目、昼食は海女小屋でということでした。「海女小屋」・・以前に1度か2度テレビで見た記憶とおなじようなつくりの,部屋の真ん中に大きな囲炉裏があり炭火が燃えて海女さんが一人すわっていました。海女さんは今はスウェットスーツを着るのだそうですが私たちのイメージどうりの白い作業着を着ていました。観光客のための装束なのでしょう.一行の一番後から入っていった私は海女さんの隣に座りました。突然海女さんが30センチ近い大きなイセエビをポイと火の上に放りました。「可愛そう!」期せずして女の人たちが声を上げます。串を打たれたえびは飛び跳ねることもできず手足?を伸ばして業火から逃れようともがいています。これが残酷焼きかとため息をつく思いで眺めていると「これ乗せて、火の上に、」と海女さんが海老を隣の私に渡しました。「え、えェ、、何で私が?」と思いました。今私の座っている席はいつも海女さんのお手伝いをするのだそうです。手袋をはめて海老をつかみました。掌の中でもぞもぞと動いているのを振り切るように火の上におきました。ぐさッぐさッと串をうち次々に海老が渡されます。スピーティーです。考える暇もなく人数分の海老を火の上にのせました。程よく焼けました。残酷な行為をした嫌悪感や憐憫の情よりも食欲はずっと上回っておいしいものを食べた満足感に浸りました。でも掌のもぞもぞした感触はいつまでも忘れられないだろうと思います。海にもぐって高価な魚介類をつかんでくる海女さんは60年もこの仕事を続けていると言いました。当然日焼けして逞しいからだでした。ひとつの仕事に練達した女性特有なゆるぎない落ち着きをもち、無駄のない動きやら話し方やらで、食べ物の美味以上に私はこの人に魅了されてしまったようです。長く生きると思わぬ出会いもあり体験もあるのだと思いました。
2007年9月11日火曜日
今昔の感
この写真は名古屋駅から東に延びる桜どうりを写したものです。元気な名古屋の堂々たる表玄関の景観です。
ここでまた古い話を持ち出して恐縮ですが、70数年前はとても狭い通りでした。名も桜ン町といいました。道幅は3間くらいでしょうか。私は尺貫法のことはよく知りませんがまだあのころは日常的には「背丈は5尺2寸」とか「間口が5間」だとか古い言い方がつかわれていました。
有名な西区の4間道(しけみち)が江戸時代、防火のために当時としては広い道として作られたと聞きました。桜ン町もそれくらいか少しそれより狭いかなとこれは私の当てずっぽうです。ちなみに1間は1.8mだそうです。
私の小学校はこの桜ン町にあり、この道は通学路でした。老舗の繊維問屋、滝兵さんの3階建の洋館が唯一目立つ建物で庶民的な家がつつましく建ち並んでいました。交通事故の心配などもなく、のんびりゆったり学校へ通いましたが、2年生のとき道路が広くなりました。それが現在の広さですから当時としてはとてつもない夢のような広さ、べらぼうなひろさだったのです。おかげで私たちの小学校は講堂が道路拡張のため削られました。以来、2年から6年まで学芸会は無し、祝日の式なども運動場でした。
まだ隣の小学校は運動場が削られたということでした。戦災で焼けるまで10年ほども運動場のない小学校があったなんて今では信じられないことですが・・私の記憶違いでしょうか。なんだか自信がなくなりました。
桜どうりというからには桜並木があったのではないかと思いますがそれは私の記憶になく銀杏並木だけおぼえています。あのあたり今あまり通りませんが大樹になって亭々と聳えていることと思います。6歳の子供が80ばあちゃんになってしまったのですから・・・
2007年7月31日火曜日
とりすぎた年
気ばかり若くても折に触れ「とりすぎた自分の年」を痛感して憮然とすることがしばしばあります。
一昨年の秋でした。オカリナの仲間7人で老人会の昼食会にボランティア演奏にいきました。その練習のとき80歳になられたばかりの男性が「当日は文化の日の一日前ですから、明治節をふきませんか」と楽譜も持参で提案されました。11月3日の文化の日は戦前は明治節(めいじせつ)という4大節(1月1日・元旦、2月11日・紀元節、4月29日・天長節、11月3日・明治節)のひとつでその日は学校で厳粛な式典が行われました。
教頭先生が奉安殿に奉納してある教育勅語を四角のお盆に載せて捧持し、しずしずとはこんで校長先生にお渡しします。
お二人ともモーニングの正装、白い手袋をはめていられるのが印象的でした。校長先生が勅語の巻物を少しずつ広げながら奉読、続いて訓話があり、それから君が代に続き明治節の歌を一同で斉唱する、これが私の記憶しているおぼろげな式次第です。
とにかくどんないたずらっ子もこのときばかりは神妙に首を垂れておとなしくしていました。先生が怖い時代でした。
式が済んで教室で紅白のお饅頭をいただき、その日は授業もなく帰ることができてその点はうれしかったのですが、寒いときは頭を下げていると鼻水をすする音があちこちで聞こえます。「はなをかんでおけ」と注意はあるのですが教育勅語というのは長いのです。じっと我慢でした。
前置きが長くなりましたが7人のうち明治節を知っている人が3人いましたので曲目に加えることにしました。
3人だけで練習をしていたとき他のメンバーが入ってきてかけられた言葉がショックだったのです。「明治ぶしすんだ?」一瞬3人はポカン、ややあって一斉に「ギャハハ・・」と笑いだしました。笑いの中にはとりすぎた年に対する自嘲がふくまれて複雑でした。
彼が明治ぶしといったのは無知ではない。無経験なのです。「せつ」と「ぶし」のちがい、まったく面白くない歌だけれど格調高く荘厳な明治「せつ」とたのしいけれど砕けた民謡の「やすきぶし」とか「そーらんぶし」、そのギャップの大きさは70歳後半位しか理解できないみたいです。それで全然かまわないのだけれどわれわれの話や可笑しみが通じる人がいなくなったのがやはり寂しい。うちで話したら娘も「それがなぜ可笑しいの?」ときょとんとしました。彼女もまた無経験の世代でした。
その後、私はクラスメートにはなしました。私の感情がすんなり彼女の胸に流入されたみたいで「可笑しいよ、十分可笑しいよ。」と大笑いでした。以来同年代の人によくこの話をします。間違いなく皆笑い出します。「50年そこそこでこれだけすれ違いがあるのに源氏物語なんて千年以上も愛読されてすごいね」と話題が飛躍したりします。
ともあれ、話の通じる人がまだ少しはいました。それが次第に減っていくことは確か、もし一番後まで自分が生きていたら・・ああシーラカンスみたいな長生きはしたくないです。
一昨年の秋でした。オカリナの仲間7人で老人会の昼食会にボランティア演奏にいきました。その練習のとき80歳になられたばかりの男性が「当日は文化の日の一日前ですから、明治節をふきませんか」と楽譜も持参で提案されました。11月3日の文化の日は戦前は明治節(めいじせつ)という4大節(1月1日・元旦、2月11日・紀元節、4月29日・天長節、11月3日・明治節)のひとつでその日は学校で厳粛な式典が行われました。
教頭先生が奉安殿に奉納してある教育勅語を四角のお盆に載せて捧持し、しずしずとはこんで校長先生にお渡しします。
お二人ともモーニングの正装、白い手袋をはめていられるのが印象的でした。校長先生が勅語の巻物を少しずつ広げながら奉読、続いて訓話があり、それから君が代に続き明治節の歌を一同で斉唱する、これが私の記憶しているおぼろげな式次第です。
とにかくどんないたずらっ子もこのときばかりは神妙に首を垂れておとなしくしていました。先生が怖い時代でした。
式が済んで教室で紅白のお饅頭をいただき、その日は授業もなく帰ることができてその点はうれしかったのですが、寒いときは頭を下げていると鼻水をすする音があちこちで聞こえます。「はなをかんでおけ」と注意はあるのですが教育勅語というのは長いのです。じっと我慢でした。
前置きが長くなりましたが7人のうち明治節を知っている人が3人いましたので曲目に加えることにしました。
3人だけで練習をしていたとき他のメンバーが入ってきてかけられた言葉がショックだったのです。「明治ぶしすんだ?」一瞬3人はポカン、ややあって一斉に「ギャハハ・・」と笑いだしました。笑いの中にはとりすぎた年に対する自嘲がふくまれて複雑でした。
彼が明治ぶしといったのは無知ではない。無経験なのです。「せつ」と「ぶし」のちがい、まったく面白くない歌だけれど格調高く荘厳な明治「せつ」とたのしいけれど砕けた民謡の「やすきぶし」とか「そーらんぶし」、そのギャップの大きさは70歳後半位しか理解できないみたいです。それで全然かまわないのだけれどわれわれの話や可笑しみが通じる人がいなくなったのがやはり寂しい。うちで話したら娘も「それがなぜ可笑しいの?」ときょとんとしました。彼女もまた無経験の世代でした。
その後、私はクラスメートにはなしました。私の感情がすんなり彼女の胸に流入されたみたいで「可笑しいよ、十分可笑しいよ。」と大笑いでした。以来同年代の人によくこの話をします。間違いなく皆笑い出します。「50年そこそこでこれだけすれ違いがあるのに源氏物語なんて千年以上も愛読されてすごいね」と話題が飛躍したりします。
ともあれ、話の通じる人がまだ少しはいました。それが次第に減っていくことは確か、もし一番後まで自分が生きていたら・・ああシーラカンスみたいな長生きはしたくないです。
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